心の闇の生成AIメモ  イラストの価値って?

心の闇ってなんやねん……

漫画用Loraを作っていた時のこと。

学習用素材を用意したいけれど、他人が描いた線画を使うのに抵抗感がある(元来は問題無いし、あくまで私の心の問題で)ので、画像生成で補うことにした。

えっちらおっちら画像を生成して、学習に適さないと分別したファイルを、ふと見たときに、「人が描いたような美しいイラスト」がたくさんあってゾッとしたんですよね。

他人が見たら価値を感じそうな美しいイラストを量産されて、ずらっと並んでいる。

それを私のモノサシで判別して、いらないって捨てている。

私は「他人が描いた線画」に価値を覚えて、そうでない、価値がない生成画像を素材として使った。

けど、もし何も知らない第三者が捨てる生成画像を見たときに、とてつもない価値を感じたんじゃないか?

誰かの心を震わせる可能性ごと捨てているんじゃないか、創作の可能性を汚してるんじゃないかと思ってしまって。

私は、AIイラストもまた認めるべきだと思うけど、潜在的に「人が描いた」イラストのほうが価値があると思っている。

だってそこには努力とストーリーがあるし、 かけた時間の長さは(コンコルド効果もあるけど)想いを込めるには十分だから。

でも人かAIか見分けがつかないなら。 第三者にとって見分けがつかないなら、それは同じだし、それを捨て去ることは、やっちゃいけないことをしてるんじゃないかって思って。

価値と可能性を捨てたんじゃないかと思って。

……本当はここで、AIが人間の立場や技術を奪うかもって、イラストの価値を下げるんじゃないかと思うべきなんだって、そうなんだとわかってはいるんですけど。

私は私の価値感でモノの貴賤を測ることだけはどうしても苦手だった。

だからいま、神にでもなったつもりなの〜って聞こえてきてる。

でもイラストの価値を下げるって言葉の、事の本質はたぶんきっとそうなんでしょうね。この言葉を、ビジネス的な意味で捉えるひとがほとんどだし、私もそうだったけど。

物のように扱ってほしくないという思いも、そこにはあったのかも。

私はなんだかんだで、手描きのほうに価値を覚えてたし、AIを使うなら人+AIが一番だと思ってる。で

もそういうイラストに付けられた情報で価値を判別すること自体が、イラストレーションの価値を貶めてるのか。

美しいイラストが、必ず額縁に入れられるものから、つけられたポテトの値段で扱いが変わるようになるの。それは、「非」現代アート的だ。敬愛する画伯に怒られちゃうな!

(まあ、現代アートは、必ず額縁に入れるという常識を常に疑っているのでありますが)

それでも私はAIを排除することはしたくない……というより、イラストに価値を感じるからこそ、AIイラストも認めないとそこは矛盾してしまう。

備え付けのポテトの味で優劣が決まるのは違うでしょ。

そりゃ技術のコモディティ化をどこまで許容するのかとか、創作物の背景は鑑みるべきでしょとか(現に私、過去にそういう記事上げたし!)、そういう問題はあるけれど……創作物が「つまらないもの」にならないような、そんな工夫が人間側にこそ必要なのかも。

誰かの感じるであろう無邪気な価値を守るためにはどうすればいいのか、そんな事を考えてる。

なんてつれづれと書いたけど、私が価値があったかもしれない生成画像を捨てていたことには何も変わらないわけで。

創作を目指しながら工業的に捨てるのは全てが矛盾してる。いやもう、創作と工業的なナニカが対比するものという考え方が古いのかな? でも価値はどうやって守るの?もしや全美術現代アート化すんの?

それでもやらなきゃ実を成すこともなく。

時代が価値観の変化を求めてる以上、どんな形であれ過去の価値観にこだわれば自分が淘汰される側になる。そして積み上げてきたものを取り崩させることにはどうあがいても暴力性が生じる。

救われないな。でもやるしかないんだよな。

できることは、新しく作られる価値が少しでもマシなものにすることしかない。世の中そんなものだもの。