【日記】ぼくらは万事万時気持ち悪い

※日記なのでオチなし。

MVのコメント欄を見ると、聞かれてもいないのに自分語りしている人がいる。

ふふっと良い意味で気持ちのよい笑みをくれる感想のものもあるけれど、たいていは(これ本編関係なくない?)って思っちゃうものだ。

もちろん、好きだなあと思えるものもある。その人の根幹に結びついているような語り口の感想は、自分語りであってそうでない、誰かに+αの思いを与えられるようなありとあらゆる感想の理想形で、私の憧れだ。

一方で、なんだか独善的で、対話が成立していないようなコメントがある。ここちょっと違うよね(^_^;)みたいな揚げ足取りで、胸をするりと抜けていくような、少し不快になる言葉だ。

こういうの嫌だなあ、作品の話だけをすればいいのになと、幼い私がコメント欄ごと一蹴する。

こんなことを日々思ってしまって、思ってしまっているからこそ、いざ自分で感想を書くときに「この感想、あの感想と同じじゃない? これ、気持ち悪くない?」と心の底からやっぱり声が聞こえてくるのだ。

他者に向けた不寛容さが、自分に牙を剥く瞬間だ。他人に言った言葉が、自分のもとにブーメランのごと返ってくる。

棚に上げて素知らぬ顔をすればいいのに、あるいは衝動に身を任せてしまえばいいのに、急にブレーキがかかってしまって喉から声が出なくなる。

だから人にはあれほど優しくあれって言ったのに……。

でもやっぱり好きという気持ちは捨てがたく、自制心に抗うほどの想いがあるなら、それは文字としてしたためるべきだとも思う。

好意があるならちゃんと伝えたほうが、絶対いい。傷つきたくないから優しさを満遍なく振りかけて、そのまま通り過ぎるのが常態化した私が、いつもカツカツになっているエネルギーを少しでも向けたいと思ってることがあるなら、きちんと大事にしなくてはいけないんだ。

わかっていてもどうにも、心には恐れがある。

結局のところ、格好つけしいで、気持ち悪いと思われたくない。私の思想や理念が否定されることは何とも思わないけど、虫を見る時のような、異物を見るような気色悪さを覚えられたらどうしようと焦ってる。私自身、そう覚えることもあるから、余計にじりじりと恐れが滲んでくる。

これだけもう盛大にやらかしてるのに!?

何もしなかったらこれ以上恥をかくことはないと心は思っていて、実際は、生き恥をますます晒すだけじゃんと脳はわかっていて。

だったら気持ち悪くない感想にすればいいと思って、自分の言葉を漉いて漉いてみたけれど。

できたものは、無味無臭で普遍的で、世辞としか言いようのないものだった。こんなのだったら、何も考えず「よかったです」のほうがよっぽどいい。(むしろ、相手に時間をとらないぶんそのほうが素敵だ!)

でも、伝えたかった好きってこれじゃないでしょ、こんなに取ってつけたものじゃないでしょとも心が開き直って宣う。

結局、自分語り。

自分というものを混ぜないと、どんな文章も面白くなくなるし、でも行きすぎると自分の押しつけでしかなくなる。

なーんにも考えてなかった頃はよくもまあ口が回ったことだけど、今はどうしても理性が「おいおい、肥大化した自我を何とかしろよ」と抑えつけてくる。

結局、自分を守りたいだけの卑怯者だ。気持ち悪いって「自分が」言われたくなくて、ものすごく臆病になっている。私が好ましく思うモノや人が、私なんかよりよほど寛容だから、気にせず受け止めるであろうことはわかってても、善良さに甘えてしまうことが嫌だ。

自分語りして、自分を気味悪がられたらどうしようと、そんな尊大な臆病心だ。ちょっとぐらいなら、全然今更なんだけど……。

うまく踏ん切りをつけられない。過去の私はどうしてあそこまで正気を失えたのかと月光を探している。

思うに、私はきっとおこがましいのだ。たかが言葉一つで、人の心に感情を与えようと思うこと自体がどうかしている 。

そして、そんなすました態度をとっておきながら、たかが言葉一つで心を動かされる瞬間を待っている。ひな鳥気分のままで。

私は心動かしたいし、心を動かされたい。そんな瞬間が欲しくて、そんな勇気もないから、何もないところをずっとうろうろし続けているのだろう。

ここまでが、先日の私の書いたこと。

ここからが、今日の私の書くこと。

でもそれってお互い様なんじゃない? 開き直りだけれど、そんなこと言ったら、言葉を交わすという行為自体、気持ち悪いのだ。

読心能力もないのに、相手の思うことも何にもわからないのに、相手のことをわかった気になって、動かそうと言葉を発して。

私の見えている相手は本人ではなく、私が心に写し取った鏡像だ。

空想の存在である以上、そこにはどうあがいてもエゴが発生するし、欲望のないコミュニケーションなんて存在しない。

それでも言葉を発するのは、心のどこかで、わかってほしいと感じているのだろう。

自分とはまったく異なる何かに、自分というものが伝播しないかとたぶん期待している。

そういえば、プラトンの著書の祝宴?ってタイトルの本に、知を広めることは、知という子を残すことであるという文書があった気がする(日記だから、ちゃんと調べなおさない)

コミュニケーションの、言葉の本質がそうであるなら、私たちはとんでもない勢いでお互いを投げ合っているんだろう。自分を無限に投げ合って、自分を複製していく。1個の林檎どころか5億5兆の林檎を貪るかのような所業だ。

言葉を生み出した時点で、人類は神にでもなった気がしていたのか。

でも投げ合うなら、やっぱり、自分の持ってないものがほしいのだ。自分が持ちようのない希望や可能性が欲しくて、言葉を渡しているのかもしれない。

そう無意識に思っていたから、私なりに、心の内を探って、好意を渡そうとしていたのか? 自分のことなのに、何もわからない。

だけど一つわかったことがある。気持ち悪いか気持ち悪くないかなんて、きっと些細なことだ。

こうして思い返すと、恐れていたのは異物として扱われることではなく、他人を身勝手な意思で変えることを恐れていたのかもしれない。

それは宗教的忌避感、潔癖のようなもの。人は変わるものだけど、変わってほしくないという欲望だ。

私なんかの言葉では動かない、ドッチボールのように受け止めるはずと、そう思い込んでいかなければならなかった。

信用しきれてないから、そういう挙動になる。気持ち悪いか悪くないかは言い訳に過ぎない。

そもそもとして……自分のソトの感想なんて、まったく意味がないだろう。「心の内の部外者」が何を感じようが、コミュニケーションが成立さえしていればそれでいいんだから!

ここでの部外者というのは、私の奥にある尊大な自尊心だ。何もなく感じる視線は、実在する存在ではなく、私自身だ。

この世の誰よりも私が私のことを気持ち悪く思っている。気持ち悪いと感じる私の感情を、この世の誰よりも優先していた。

ここまで考えて、思った。「本当に気持ち悪い!」

うだうだする思考も、言葉の持つエゴイズムも、誰かを揺るがそうとする私の無遠慮さも、すべて気持ち悪い!

でも、こうしてすべて剥がして、私がこの上なく気持ち悪いと自覚できたら、とてもスッキリした。

結局、自信がないことを、人を信用できるほどの心の強さがないことをうまく形にできなくて、気持ち悪いって感情で表現してただけじゃないか……。

心に写し取った鏡像の前に立つ勇気がほしい。

ここからが、未来の私の書くこと、当日の私だ。

今から思うと、どうしてこんなことで立ち止まってたのかがわからない。

普通に好きって言えばいいじゃん! どれだけ気にしいなんだ!

でも悩んでいるときは全力なんだ、自分がそういうすぐ袋小路に入る人間だってこと、自分が一番よくわかってる……。

「尊大な自尊心」、と言ったけれど「ぱんぱんに膨らんだ自己」というのが正しいかもしれない。

世界に自分がどこまでもパツパツに広がって、身動きも息できなくて、手を動かせば何か素晴らしいものをプチッと壊してしまうんじゃないか、迂闊に動いて全てを壊してしまうんじゃないかという、そういう恐怖。

それを解くために、自分は葉の1枚であることを思い出す。世界から見れば私はたかが葉っぱでしかない、だからこそ逆にいくらでも好きなように振る舞っていいのだ。

どうせ葉の1枚、無風無風!

迷惑でなければ、たぶん何でもいいんだ。「独善的で、対話が成立していないようなコメント」を肯定するような結論になったけど……全ては私の主観に過ぎない。

どんな形であれ、想いを形にすることは素晴らしいんだから。それで異なる存在とのコミュニケーションが成立したら、喜んでもらえたら、もっと嬉しい。それだけの話。

そう思って、この記事も上げることにしたけれど……とどのつまりこの全ては上質紙に描いた、私の人生への言い訳だ。

こんな私だけど、ほんのりほどほどに仲良くしてもらえると嬉しいです、世界。